ごみ集積所に積み上げられた家庭ごみの山を前に愕然(がくぜん)とすることが、正月の恒例行事のようになっている。ごみの収集が数日止まるだけで、集積所に立ち入ることすら難しくなる。
収集がないことを念頭に置いて、なるべくごみの出ない生活を年末年始に心掛けたつもりだった。しかし、おせち料理に飽きてスーパーマーケットへ行き、プラスチックで個包装された食材を買って食べ、それなりの量のごみを袋詰めにして集積所に置きに行く。毎年のように正月のごみの多さに驚きながらも、自分のライフスタイルこそが大量の廃棄物の原因であるという現実を、何ら改善できないでいる。
ごみを前にして素朴な疑問が湧き上がる。数日で膨れ上がるごみ集積所を見れば、ごみ収集という仕事の重要性がわかる。しかし、社会がその従事者たちに、役割の重要性に見合うだけの報酬を支払っているとは思えない。ごみの収集のみならず、介護や看護や保育や教育など、社会の維持に欠かせない様々な分野に共通した問題だと思う。
ごみは私たちの購買の記録であり、もちろん要らぬという選択そのものでもある。各々(おのおの)の消費活動の集積とも呼べるごみの山は、強(したた)かに私たちの社会を映している。それぞれのごみ袋が、不均衡な社会を無言で支持する投票券のように思えて、何とも言えない罪悪感が胸の内に広がった。
(ミュージシャン)
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